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地域の森林から生まれる薪炭を使おう!
〜薪炭等バイオマスの地産地消の実現に向けて〜
薪炭の生産〜青梅林業と薪炭の関係〜

現在、東京都において薪炭はどれくらい生産されているのだろうか?

統計(※1)によれば、平成18年の生産量は木炭が26t/年(多摩11t/年、伊豆七島等、島しょが15t/年)、生産者数25人、窯数26個が確認されている。生産地は主に西多摩である。炭の種類は全て黒炭であり、用途は燃料24t/年(伊豆七島ではバーベキュー用に炭が多く使われる。)、土壌改良材2t/年となっている。黒炭の国内生産量は13,611t/年。岩手県が4,463t/年と最も生産量が多い。薪は540トン/年である。

多摩では江戸時代から炭の生産が行われている。江戸時代初期から昭和30年代まで多摩地域でも森林資源の多い西多摩地域は江戸へ炭を供給する重要拠点の一つだった。つまり、西多摩地域は100万人を擁する巨大都市・江戸をエネルギーの面から支えていたと言える。距離は離れていても都市と山村は、エネルギーの需要と供給関係により分かちがたく結ばれていた。

炭やき『七十一番歌合』、炭やきの図 『日本山海名物図会』

西多摩地域の中でも、特に多くの炭を生産した檜原村では、例えば1949年(昭和24年)に811,772俵の生産量を誇る記録がある。最盛期は1935年頃で、檜原村だけで西多摩郡全体の生産量の約3割を占めていた。しかし、1963年(昭和38年)には28,650俵(1,949年時に対して3%)に激減している。戦後のエネルギー革命により、生活で使う熱源は炭から灯油、重油、ガスへ移行したことにより、炭の消費量は急速に衰退していった。

檜原村では黒炭と白炭を製造しており、黒炭(1週間窯をたいて14俵)は土窯、白炭(1日窯をたいて4俵)は石窯で生産されており、檜原村では白炭が一般的であった。この白炭は品質によってカタ炭とカジ炭の二種類に分けられた。カタ炭は、ナラ・クヌギ・カシが用いられ火力の強い高級品であるため、1表1円前後で取引された。カジ炭は原料が雑木で30〜40銭であった。これらの炭は10月から翌年5月までの冬期に生産されることが多く、1人1冬、約1町歩から原木を集め、約300俵の生産を行った。

西多摩郡および桧原村の炭生産量の変遷

[参考文献]
※1:「平成19年版 東京の森林・林業」東京都産業労働局
 2:「多摩川の筏」平野順治 森林文化研究第5巻 1984年

薪炭の流通 〜西多摩地域における薪炭の流通構造〜

木炭需要の高まりを受け、1735年(享保20年)五日市(現あきる野市武蔵五日市)に江戸への炭の流通を管理する炭番所が設けられた。幕府は財政政策として、炭を買う商人(炭買人)に対し炭1駄につき炭札1枚の運上金を課していた。この制度は農地解放等の制度に伴い廃止され、明治以後、生産者は自由に炭を商うことができるようになった。

江戸時代から次第に定着した薪炭にまつわる出荷形態は「三角交易」と呼ばれ、北多摩郡の農民が農閑期の仕事として行った流通の代表的な形態であった。五日市で仕入れた炭を江戸で売り、帰り荷として肥料を仕入れ、武蔵野地区の村々で売る。今度はそこで穀物を仕入れ、五日市へ戻り穀物と引き換えに炭を買うことで五日市、江戸、武蔵野の地点が結ばれていた。

sub2_image_sumi2.jpg江戸時代における木炭の輸送手段は牛馬による輸送が主体だった。次第に荷車・馬車となり、戦後は自動車輸送に切り替わっていった。また、西多摩においては河川を利用した筏輸送も行われていた。筏輸送の利点は陸上輸送と比較すると、少人数で大量の原木を低コストで損傷させずに輸送できることだった。多摩地方全体で4,000枚から6,000枚の筏が流され、五日市にある秋川渓谷は多摩川渓谷の3分の2を占めた。林木業者兼筏出荷人である筏師は、秋川筋では「小宮領筏師仲間(組合)」と呼ばれる同業組合を組織し、多摩川筋の「三田領筏師仲間」と連携した。

伐出された木材はまず一本づつ「管流し」によって流され、「土場」へ集積され、筏に組まれ江戸に流された。「土場」は五日市・戸倉周辺に多く、筏には、炭・皮・小割・板などの上荷を乗せ、「敷引金」という手数料を「筏会所」で徴収し組合の運営賃金とした。なかでも炭は上荷の敷引金合計の20%を占め、重要品目であった。出荷量は明治39〜40年にかけて激減したが、明治後期に筏で輸送される炭は45%が戸倉・乙津両村で生産された炭であった。この両村では炭の運上制は炭問屋でなく、村が請負であったことによる。つまり、輸送方式として、炭問屋による陸上輸送と筏師による河川輸送の図式が共存していた地域であった。

秋川流域町村における木炭生産量推移(1939〜1967)

[出典]
東京都西多摩事務所資料による 福宿光一 1968年:「東京都文化財調査報告書21-西多摩文化財調査報告第3分冊」東京都教育 委員会
※五日市町は旧増戸村・旧戸倉村・旧五日市町、秋川市は旧東秋留村・西秋留村、日の出町は旧平井村・旧大久野村から成る。

薪炭の消費 〜薪炭の利用方法(江戸の街で使われた炭)〜

江戸で最も多く消費された燃料、それは炭であった。家屋の集中した地域に住むため煙の出ない暖房が必要であったことと、何よりも防災の必要から炭が尊ばれた。薪に比べ高級な燃料であった炭は、特に武士や町人によって多く消費された。しかし、江戸市中で最大の消費者は徳川家であった。そのため、幕府は直営の製炭地として天城御用林を所有しており、その量は平均13万2804俵。産額1万俵につき558俵の割合で現物を収める冥加(※1)であった。加えて御用炭問屋から佐倉炭や佐野炭を買い上げていたので、いかに多くの炭を必要としていたのかを推し量ることができる。

特に徳川家においては、風呂と炊事に大量の炭が消費された。風呂は将軍の入浴する「御風呂屋口」から中奥、大奥に使える2,000人以上の奥女中衆の使う風呂200個以上と、各女中の部屋毎にある炊事場で消費された。加えて冬期には暖房の需要が追加された。したがって、炭問屋にとって関係筋に取り入り大奥御用となるべく、熾烈な競争が繰り広げられた。

田楽火鉢 とうふ茶屋の図 『百人女郎品定』、江戸城大奥の火鉢

例えば七代将軍家継の正徳三年(1713年)、浅草の薪炭問屋柄屋善六が時の大奥月光院に取り入るべく、まず月光院の信頼を得る奥女中江島と手厚く接待することにした。江島は歌舞伎が好きだということで、柄谷達は山村座の正面桟敷を上下各四間買取り盛大な宴を行った。しかし月光院は本望であった役者に会うことが出来ず機嫌を損ね帰ってしまう。そこで柄谷は再度役者の了解を取り付けて宴を催し、見事月光院に取り入ることができた。しかし翌年悲劇がおこる。例によって大乱痴気騒ぎの最中、江島がこぼした酒が階下にいた島津家家臣谷口新平の頭にかかったことから、谷口は激怒、謝罪も空しく、事件は表沙汰となり、江島は罪一等を命じられ信州高遠に流罪、座は取りつぶしとなってしまった。

この事件は、炭を通じて江戸の文化、大奥の生活が垣間見える点で面白く、重要物資である炭として、その存在感が伝わってくる。

※1:冥加とは…江戸時代町人に課せられた税の一種。金銭の場合は冥加銭と呼ばれた。
[出典]
「ものと人間の文化史・木炭」樋口清之 法政大学出版局 1993年