大徳寺
大徳寺は鎌倉末期(1315年)に大燈国師(宗峰妙超)が開創した臨済宗の寺です。
室町期、“一休さん”と親しまれた休宗純が大徳寺の住持となりますが、応仁の乱の戦火を避けて京都南部の酬恩庵(通称一休寺)に住まわれました。
能の金春流の祖、金春禅竹は一休に深く帰依し、酬恩庵をしばしば訪ねます。
門前には、禅竹が一休ひとりのために能を演じた場所と伝わる“金春の芝”があります。
酬恩庵のあたりの地吊は“薪(たきぎ)”といいます。
平安時代に石清水八幡宮へ薪を共進していたことから、そう呼ばれるようになったそうです。
“薪能”はこの地吊に由来するとの説もあります。
茶道の祖、村田珠光も一休に参禅したそうです。
珠光のあとを武野紹鴎、千利休が継いで侘び茶が大成されました。
本能寺の変の後、明智光秀を討った豊臣秀吉が織田信長の葬儀を大徳寺で催しました。
それを機縁に豊臣政権下の諸大吊が競って大徳寺に塔頭をつくりました。
それとともに茶道も興りました。
大徳寺の塔頭のひとつ高桐院は、細川忠興が建立しました。
10年ほど前になりますが、JR東海のキャンペーン「そうだ京都、行こう。《で紹介され、紅葉した落ち葉で真っ赤な庭のポスターを目にされた方も多かったと思います。
その庭の客殿と接するところに炭が敷き詰められています。
ちょうど屋根から雨水が落ちるところです。
“炭の雨落ち”と言うそうで、雨水の跳ね返りを防ぎ、水の流れもよくし、臭いもない、用と景の二つを融合させている、と説明書きがありました。
ふだんの庭は苔に覆われ緑色していますが、この美しい苔の維持にも一役かっているようにも思います。
高桐院の茶室松向軒は、秀吉の北野の大茶会を催した時の茶室を移築したものと伝わります。
書院は千利休の邸宅が移築されたものだそうです。
大徳寺には茶道三千家の菩提寺である聚光院もあり、大徳寺と茶道との深い結びつきが感じられます。
茶道は炭づくりにも影響をあたえました。
切り口が菊の花に似ることから“菊炭”とも呼ばれる“池田炭”は今日でも茶会で用いられる高級な炭ですが、武野紹鴎、千利休らによって改良されたと伝わります。